公園のおともだち

先日読んだ小説「対岸の彼女」(文春文庫 角田光代著)のなかで、「公園難民」という言葉を初めて知りました。特定の友達が見つけられず、複数の公園を転々とする状態を指すそうです。

少し前まで私も、この状態は分からなくないなぁという具合でした。

公園で会う他の親子さんたちとは、当たり障りなく、ほどほどで関わって時々挨拶を交わす程度…というものでした。

 

 

ところが娘がある時、のりもの好きをきっかけに、スッと人の心に入ってくるような、

素直で優しく楽しいお友達を見つけてきました。どうやらうまがあったようです。

 

もちろん発達途上の子どもに当然ある、物の取り合いやお互いの要求のバランスのとり方が分からない事態…ということは沢山ありました。

 

でも人との関わり方を学ぶのは、人と関わることでしか育たないということを先の記事で書いたように、とくに子供同士でのやり取りを通して学べる機会を頂けたということはとてもありがたいことでした。

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要求と要求がぶつかった時に、

単に「どうぞ」「いいよ」「ありがとう」「ごめんね」の定型文を言い合うのではなく、お互いの丁度いいバランスや距離感を模索して…

最近では二人でブランコに乗って、前後ではなく横に揺れながら(ブランコは傷めそう。公園管理の方ごめんなさい)何やら楽しそうに話している。

相手が話し終わったら話し、笑い合い、同じ波長で程よい距離を保って。

(シュタイナーでいう均衡感覚といえるのかな?均衡感覚って、下位感覚のなかでも理解するのが難しいです。こちらの方の考え方なるほどなと思いました。

◎シュタイナーの復習-③均衡感覚。これが面白い。「間」を感じる感覚。時間の間、空間の間、心の間。二つのものの間。そして、「間」とは「魔」。 : 日本語教師でサブスリー

 

言いたいことは言い合うけれど、でも「同じ時と場を共有したい」と思える仲間に出会えたことは、保育園や幼稚園にも習い事にも、まだどこにも通っていない娘にとって、本当に幸せなことだと思います。

 

 

 

公園における友達とは、なんとも難しいものと思いませんか?私だけかな。

「保育者と多数の園児」という関係とはまた異なる、保育士や先生といった第三者的な人が不在で親子同士だけの関係。

 保育者にはある一定の子供との関わり方というものがありますが、親はそれぞれです。

公園につくなりベンチに座りスマホから目を離さない方もいれば、

「あれで遊ぼう」「これで遊ぼう」「あれは駄目」「これは駄目」となにかと子どもの先回りをする方など、

実に多様な方がいらっしゃいます。

(子育て方針はそれぞれあってよいと思うので、良い・悪いと評価を下すつもりはありません。なぜなら「保育」という学問的な領域ならまだしも、「子育て」という分野においては、正解も不正解もないと思いますので。)

そういったこともあり、公園難民という言葉が生まれるには正直私は頷けます。

 

なんとも言えない絶妙なバランスを、親も模索する不思議な関係がある中で、

こんなにたいせつなお友達に出会えたこと、貴重な経験をさせていただいたことに、心から感謝したいです。

 

 

チョコをもってきた

長女が話してくれた不思議なうみのおはなし、

胎内記憶について以前ここに書きました。

 

 

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その後も何度かこのうみの話をしてくれていました。

このお話をしてくれる時、いつも一貫して言っているのがチョコのお話。

 

 

「うみのおあばちゃんがくれたチョコをお外にもってきて、おかあさんにあげたんだよ。」

 

 

はじめは気に留めていなかったのですが、

長女の生まれてから3〜4ヶ月ごろの写真を見返していたら、まだ赤ちゃんの長女がたくさん声を出している動画がありました。そういえばこの頃、声を出して何かを一生懸命に伝えようとしていると感じたことがありました。何かを私に伝えるために生まれてきたんじゃないかな、と思うほど一生懸命におしゃべりしていました。

 

そんなことを思い出したら、チョコの話が気になってきて。

もしかしたら何らかの使命を持って生まれてきたのかもなぁなんて思うようになりました。

 

そう考えていたらまた長女が

 

「おかあさんにチョコを持ってきたの。寂しくないようにあげるんだよーってうみのおばあちゃんがいってたの。」

「うまれたらたのしいよって うみのおばあちゃんが教えてくれたんだよ。」

 

なんて言うので、へぇえ〜!と驚いてしまいました。

うみのおばあちゃんって、優しく抱っこしてくれるだけじゃなくて

大切なことを色々教えてくれる人だったのか…

 

 

前回までの話を池川明先生に報告したときも、「きっとまた話してくれると思うので、また教えて下さい」とおっしゃっていたはず、と思って早速また報告してみました。

 

 

先生曰く、「チョコ」という言葉で話す子は今までいなかったのだそう。

なんだろうな、それはお母さんを幸せにするものなんですね。と。

 

 

幸せ、そうか〜私や他の誰かのことを幸せにするために生まれてきたんだよ〜と赤ちゃんだった頃の長女は一生懸命教えてくれていたのかもしれない。

信じる信じない、嘘か本当か、という話ではなく、

純粋に面白いですね。一生懸命話してくれる姿を見ると真実だ〜と思うし、

命ってやっぱり不思議。

この不思議さ、子どもを生む前は忘れていたというか、そんなに深く考えてもみなかったなぁ。命の誕生に携わる助産師なのに。

 

色々気づかせて、考えさせてくれる娘に感謝です。

 

 

 

家族が増えると対人関係はどう増える?

最近長女が
「またじょさいん(助産院)であかちゃんうみにいきたいねー」
という。


正直私は2人で十分かな〜と思ってはいたのだけど。長女にそう言われると

「いいね、今度はどんな子かな。男の子かな、女の子かな。」と答える。
すると長女は
「うーん、次女ちゃんもういっこほしい。」

 

妹のことが大好きなようです。

 

そして、助産院での出産に立ち会った長女にとって、

「お産は楽しいイベント」という印象に残ってくれていることが何よりうれしく思います。

 

 

さて、3人目とはなかなかハードルが高いと感じます。

3人子育てをなさっている世の中のお母さま方、本当に尊敬します。

 

次女を生んで子どもが2人になったら、

ひたすらかわいい子どもの成長に頭が追いついていなくて、

次女ちゃん、いつの間におおきくなったの!?

長女ちゃん、こんなにお姉さんになっちゃったの!?

と頭の中が軽くパニックを起こしています。(いい意味で)

 

3人目のことを考え始めると、思い出すのはこの話です。

家族構成員がひとり増えると、家族内の関係の数は、どうふえるか??

1人増えれば1つ増える、という単純なものではないのです。

これこそ「なんとなく分かっていること」かもしれません。

 

家族内での人との関係の数は、n(n+1)/2になっていくのです。

(nは家族の人数です。)

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図にすると分かりやすい

 

家族がひとり増えると、関係はぐっと増えます。

3人家族では3こだった関係が、4人家族では6こ、5人家族では10こも!

 

人との関わり方を学ぶのは、人と関わることでしか育たないという性質がありますので

やっぱり3人目、いいなぁ〜ほしいなぁ〜と思うのです。

 

私は祖父母と同居で7人家族で育ったので、実に21この関係の中で育ちました。

ありがたいことです。それを思うとやっぱり子どもたちにも、沢山の関係の中で育ってほしいなぁと願います。

 

それに、5人家族の図を見てみると…

 

素敵なお星さまになっています ✩ !

 

 

 

 

バースプラン、バースレビュー②

さて、後半のバースレビューです。

前半のバースプランについてはこちら。

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なんでバースレビューをするのか??

教科書的には「お産のわだかまりを解消すること」、

その上で「前向きな姿勢で育児に挑めること」

ですが、私はもっとその先にある大切な意味もあると考えています。

 

それは、子どもが大きくなったときに自分が生まれたときのことを話してあげること。

しかもできるだけポジティブな要素を伴って。

それこそが性教育の一番の始まりであって、いちばん大切なことだと思うのです。

性教育と聞くと身構えてしまうお母さんもいらっしゃるかと思いますが、

生まれてきたときのことやその時の気持ちを伝えてあげる時間を

親子でもってもらいたいなぁと思います。

 

 

 

バースレビューはできればお産についた助産師が産後2,3日目に

一緒に話し合えると良いと思いますが、病院の状況によってできないこともあるかもしれません。(お産当日は是非ゆっくりと休んでください。)

 

なので、まず自分で覚えている限りのことを紙に書いておくことをオススメします。

そうすると、あれ、このときの助産師さんの言葉ってどういうことだったかな、

なんでこういう状況になったのかな、ということを医療者と振り返りやすくなると思います。

書いたものをもしよければ、医療者に見せてあげると、より振り返りがしやすいと思います。

 

 

産後2,3日目、遅くともできれば入院中がおすすめです。

退院してしまうとお母さん自身も家事や育児で忙しくなってどんどん忘れてしまいますし、

もしわだかまりがあった場合にはマイナスなイメージだけが残ってしまうことがあるかもしれません。

 

入院中に赤ちゃんが寝ていて、もし身体の疲れ的にも書けそうな状況やタイミングがあったら、記録してみてください。(記録できる手帳やノートを、入院のときの持ち物に入れておくことをおすすめします!)

 

 

ちなみに私が生まれたときのことは、母に聞いてもいつも

「わすれちゃったよ〜」と返ってくるので、正直かなり切ないです。

でも「三姉妹のうち誰のときだったか覚えてないけど(驚愕)、

助産師さんがずっと腰をさすってくれてて安心したのは覚えてる」と

前向きなことだけを話してくれるので「母の良いところだな」、と思います。

そしてそんな話を聞いていたので助産師という職業に憧れをもっていたのもあります。

 

 

さて自分の書いたお産の記録を写真に撮って載せようとも思ったのですが、かなり個人的な内容なので控えます…。

入院前からのことをけっこう長々と記録しました。

起こったこと、見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたこと…とにかく覚えているうちに走り書きでダダダーっと書きました。

 

 

長女を出産した時、さあノートに記録しよう と思ってページをめくったら、

夫が先にこんなものを書いていました。

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夫から

 

 

世の中の男性の方々には是非、お産後の女性にこういった言葉をかけてあげて欲しいなと

切実に願います。

 

 

バースプラン、バースレビュー

シュタイナー幼稚園の入園前の書類には、

妊娠中や出産の時のことを書く欄があります。

(園によって色々だと思いますが)

「妊娠期から子育ては始まっている」という考えが当たり前としてあるのですね。

 

長女がお世話になる予定の園でも、妊娠してから今に至るまでについての様子を書く欄が大体5行分くらい、ありました。

(本場ドイツではものすごく長いレポートを書く園もあるらしい)

 

 

ところが、あるシュタイナー園では、入園前に妊娠や出産について書いてもらっていたところ

「あまりにも出産がつらかった」ということを欄外にはみ出すほど長々とお書きになるお母さんが多数いらっしゃって、もう書いてもらうのをやめた、という話を教えてもらったことがあります。

 

 

助産師としてその話を聞いたとき、とても悲しくなりました。

お産を少しでもよくするためにできることってなにかと自分なりに考えると、

「バースプラン」「バースレビュー」かなぁと思い、ここに書こうと思いました。

 

妊娠中に生活リズムを整えたり体力づくりをすることももちろん大切だけど、

バースプランをたてることで考えることが前向きになって行動も変わってくることってありますね。

 

もちろん出産する施設にもよるし、その時の状況によって叶わないことも十分にありえます。

 

でもバースプランを考えておくことは、前向きな姿勢になります。

前向きな姿勢って、助産学科の教科書にも載っているくらいとても大切なことです。

出産には大切な3つの要素があり、「胎児・娩出力(陣痛といきみ)・産道」を

「分娩の3要素」といいますが、これに「母体精神」を付け加えて「分娩の4要素」と説明している教科書もあります。心と身体はつながっているんですね。

 

 

 

 

さて、そうはいっても「バースプランを〇〇週までに書いてきて」と言われても、

イメージが湧きにくいと思います。

そもそも何ができるの、と思いますよね。

よく音楽を聞くとかアロマを焚くとか誰に立ち会ってもらうなどがありますが…

 

出産時に行われるケアはWHOでは推奨されているのか、されていないのか、をもとに考えてみるのもいいかなと思います。(22年ぶりの改定です!)

 

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「WHO ガイドライン ポジティブな出産体験のための分娩期ケア」と検索するとPDFになっているのを見ることもできます。

このガイドラインでは不必要な医療介入は推奨しない(例えば慣例的な会陰切開など)とする一方で、予防的に必要な医療は推奨しています。(例えば異常出血の予防としての子宮収縮剤の投与など)

 

事前にこういうことを知っておくことで、

じゃあ、「自分はどうしたいか」を医療者とどのくらい建設的に話し合えるか、

ちゃんと事前に対話ができるかが大切かなと思います。

産科はどんどん集約化されていますので、大きな病院ではどうしても医療者が忙しいという現状があります。

じっくり話を聞いてあげたい、という医師、助産師はもちろん沢山いますが、その時間が取れないという現状もあるのは確かだと思います。

そういう中でも医療者との対話がスムーズにできるようにできることを考えておくことは、

自分を守ることになります。

 

そうすることで医療者との間に起きるお産のわだかまり

少しでも起こりにくくできるのではないかな、と思います。

 

 

ちなみに私は一人目、二人目の出産でそれぞれ一つだけ希望しました。

一人目のときは「早期母子接触(いわゆるカンガルーケア)がしたい。」

二人目のときは助産院だったので「自分の手で赤ちゃんを取り上げたい。」

でした。もちろん状況によって難しければ諦める、ということは事前に話し合いました。

 

事前に考えるのも楽しい、

実際はどう転ぶかな〜とドキドキするのも楽しい。

できればそういう前向きな気持で乗り越えていきたいですね。

 

 

長くなってしまったので、バースレビューについてはまた次回に。

 

 

 

あと最後にアミプラさん、好きです。

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シンプルなのに難しい、だからシュタイナー幼稚園に決めました

幼稚園選び、悩みに悩んだ末、

少人数が集う小さな小さなシュタイナー幼稚園にお世話になることを決めました。

 

シュタイナー園4園、モンテッソーリ園2園、近隣私立幼稚園3園、計9園を見学しました。

そして小さなシュタイナー幼稚園へ通うため、引っ越しも決意しました。

 

それを聞いた人からは「教育ママ」や「変わった親」と、思われるかもしれませんが…。

なにも、「天才になってほしい」「歴史に名を残してほしい」「時代を引っ張る人になってほしい」と願っている訳ではありません。

 

子どもに願うことは、子を授かったときにどんな名前にしようか夫婦で話し合ったときから変わらず、「心身ともに健康であること」それだけなのです。

 

「シュタイナー幼稚園へ通ってよかった」

と実感できるのは、もしかしたら在園中でもなければ、

大学進学が決まったときでもなく、就職内定が決まったときでもなく、

もっともっと先の、30代あるいは40代や50代かもしれません。

いや、本人は実感することもないかもしれません。

 

それでも、この教育が、子どもとその周りの成長を支え

大人になってからも頭や身体の片隅で本人をそっと支えてくれると心から信じています。

 

そう思えるのは、夫が幼少期にシュタイナー教育に触れて、

熱心にシュタイナーを学んだお母様のもと育った人だからかもしれません。

本人はそんな気は全く無いでしょうが、シュタイナーの考えに大きく支えられている人だと感じます。

 

 

でも本当に引っ越しまでして通うことなのか?

シュタイナー幼稚園でなくても、シュタイナーのことを全く知らない人でも、

素晴らしい保育をしていらっしゃる先生は、もちろんたくさんいると思います。

 

 

シュタイナー幼稚園にお世話になることを決めた一番の決め手は、

素晴らしい担任の先生とオイリュトミーの先生に出会ったから、

そして園舎に入るなりすぐそこに自分の居場所を感じて、のびのびと遊び始める娘を見たからです。

大抵幼稚園の見学に娘を連れて行くと、私はいいなと思う先生や園でも、

本人はじっと周りを見つめて自分の居場所をどこかに「探す」ことから始めていました。

そして隅の方で遊び始めるけど、周りのことをいつも忙しく観察している。

「のびのび」にいたるまで時間がかかるのです。

 

しかしお世話になると決めた園では、もう入るやいなや、

まるでおばあちゃんの家に遊びに来たかのような足取りで、

余計なことを考える間もなく自分の世界を広げて遊び始めました。

(おうち以外では珍しく、鼻歌まで歌いながら!)

この「私は受け入れられている」という感覚を子どもに持たせてくれる空間づくりは、

先生や保護者の方々が丁寧に作り上げていらっしゃる尊いものだと思うのです。

 

よくのびのび育てましょうとか、自由にさせるのがいいのね、と言われますが

こどもの「のびのび」を引き出すためにはしっかりと子どもをよく観察してくれる人や環境がないと難しいのではないでしょうか。

そして「自由」とは、シンプルなようで意外と一番難しいことのようにも思えます。

自由放任は、子どもをスポイルすることになりかねない。

 

 

ほるぷ出版「うれしい気持ちの育て方 絵本と私とシュタイナー」でこのシンプルなようで難しいと感じてしまう現状になっているわけを、言い当てている説明があったので引用させていただきます。

 

ー私たちは「反なになに主義」「✗✗にノーを言うための○○」で考える傾向があります。「自然から切り離されたこどもの野生を取り戻すために、たくましいどろんこ保育をしましょう」「教育の管理主義、権威主義が強まってしまったので、子どもにもっと自由を与えましょう」という具合です。

「今のままで大丈夫かな?」という疑問が通奏低音のように流れているとき、これらの現状打開策が頼もしく思えます。そして「自然」とか「自由」と言う言葉に行き当たって安心して満足すると、それ以上考えることをやめてしまいます。ー

 

こどもをよく観察して「考えることをやめていない人」であれば、

シュタイナーを知らなくとも素敵な保育をしていらっしゃると思います。

(コロナ前によく行っていた支援センターは、そんな保育士さんが多くいらっしゃいました。)

そういう意味では、「自然」や「自由」を謳っているだけの園よりも、

「考えることをやめていない保育士さん」のいる認可保育園のほうが

ずっとシュタイナー的な保育かもしれません。

保育園か幼稚園か、シュタイナーかそうでないか、ということではないのですね。

 

とはいえシュタイナー園である、ということは一つの選ぶ基準にもなります。

私が見聞した方々(会って話を聞いただけでなく本を読んだり)の統計なのでどれほど当てになるかわかりませんが、

シュタイナー幼稚園の先生方は「公立幼稚園にいました」「どろんこ保育をしていました」「自由保育をしていました」「モンテッソーリを学んでいました」など、

いろいろ経験された後に、「なにか違うかも」という感覚を大切にして考えた末にシュタイナーに辿り着いた方が多いように感じます。

それだけでも、信頼が置けると思っています。

 

 

そして最後に…、

これは書こうかどうか今でも悩んでいるのですが、どこかで(かつ現役で子育てをしている保護者の側から!)発信する人がいないとなぁとも思うこと。

 

モンテッソーリ教育がとても流行っているようです。

藤井聡太棋士の影響か、GAFAの影響か。

しかし モンテッソーリ = 早期教育 のように広まっているような感覚に、違和感を覚えます。

モンテッソーリも素敵な教育法だと思います。こちらはそこまで深く勉強していませんが。

でも私が勉強して感じたのは早期教育とは真逆だと思うのです。

シュタイナーと同じように身体を通して学ぶことを大切にしています。

 

見学したモンテ園で感じた違和感は、「主体性を重んじる」といいながら

課題(おしごと)ができない子どもに対する先生の顔がすごく怖い、

「お受験対策して差し上げます」「しつけをして差し上げます」という謳い文句で園児を獲得しようとする、、、、

 

これらのことにはどうしても違和感、不信感が拭えません。

とはいえ、需要があるから存在しているのでしょう。

否定ばかりするのも良くないですが、保護者の側からの発信者の1人になってみました。

 もちろんすべてのモンテッソーリ園がそうなわけではないと思いますが。

 

以上、幼稚園選びを通して感じた一個人の感想を、本当にまとまりなく書いてみました。

気分を悪くされた方がいらっしゃったらごめんなさい。

そして最後まで読んでくださりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

土曜日の雨さんぽ

雨さんぽの日も、「冷たい」とあまり感じない暖かな季節になりました。

 

私は休日の公園が苦手です。

夫は不規則な仕事をする人なので、土日に休みが被るのは珍しいのです。

そのため休日に”パパさん率”の高い公園に行くと

私自身も「いいなぁ」という気になってしまうし、

(その分平日に家にいることがあるのだから無意味な羨望なのだけど)

娘も感じることがあるのか。「おとーさんいつかえってくるー?」と。

たいていその日のうちには帰ってこられないので、

どうやって明るい話題にしようかと言葉を慎重に選ぶ。

 

そうならないように”パパさん率”の低い川へ行って船を見たり、

時々船に乗ってみたり、あとは自転車で少し遠くまでサイクリングしたり。

 

 

でも、雨の日は何だか特別。

そんな思いをしなくて済むのです。

雨の日はとっても楽しいさんぽの日。

 

今日も朝から雨で、

「おかーさんはやくあめさんぽしようよ。あめこうえんもしたい。」

と朝食を摂る前からわくわく。

 

傘を持って長靴で外に出る。

水たまりをバシャンとやるやつや、高架橋の雨漏りしている下で落ちてくる雨を傘で(時々頭で直接)滝行のように受け止めるやつなどの、お決まりの遊びをひとしきり楽しむ。

 

今日は、このお決まり雨遊びを堪能したあとでじーーーーっと飽きること無く

こんな穴を覗いていました。

 

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雨樋の出口

 

我が家は下町で工場が多く、こういった古い建物がたくさんあります。

そんな建物の雨樋から出てくる穴。

とくん、とくん、と不規則なリズムで水が流れてくるのを、しばーらく見ていました。

 

ずっと見ていた娘がぽつり

「あめやんでも おみず でてくるんだねぇ。」

 

あれ、本当だ。いつの間にか雨がやんでいる。

私は全然気が付かなかった。

ぼんやり見つめているだけかと思っていたら、色々なことを感じとっていたのだなぁと気付かされる。

 

シュタイナー教育では幼児の感覚は「開かれている」という言葉で説明するけれど、

このときの娘も、目で見ていただけでなくて、雨の音や、肌の感触を使って

雨の日を感じ取っていたのだなぁ。

まさに全身が感覚器になって世界を感じ取っているんだなぁということを実感しました。

 

 

休日に雨が降るのは大抵の人は残念なことなのだと思いますが、

今日は雨が降ってくれて嬉しい我が家でした。

 

 

私の父も、長年ずっと土日は働き、月曜が休みの人でした。

もしかしたら私の母も、同じような思いをした時期があったのかもしれないなぁ。

ということを、今書いていて思い出しました。